植物療法がふたたび化学になる日
モーリス・メセゲの植物療法が教えてくれる人と自然のつながり
モーリス・メセゲの名前を初めて見たのは、ハーブ店の片隅の小さな本コーナーだった。
彼が治療に使うのは、ハーブやバラ、そしてキャベツなど、あまりに身近な植物で、そのことがひどく新鮮に思われた。
素朴とも言える植物たちを使って、彼は奇跡と呼ばずにはいられないような成果をあげている。
モーリス・メセゲは、日本ではまだそれほど知られてはいないが、世界でもっとも著名なハーバリストのひとりと言っていいだろう。
そのモーリス・メセゲの植物の知識は、彼が生まれたフランスの静かな村で、代々、彼の祖先が育んできたものだった。
モーリス・メセゲの名をフランスだけではなく世界に知らしめたのは、詩人のコクトーやモナコのグレース王妃、イギリスのチャーチル首相など数多くの著名人を治療したことだった。
現代の魔女として法廷に召喚されたモーリス・メセゲの闘い
だがその華やかな成功の陰には、21回にも及ぶ、彼の身も心もくたくたにしてしまうような裁判があった。
1949年、28歳のモーリス・メセゲは、ニースの法廷に被告として立った。判決は「有罪」。
その後も1968年までの20年間にわたって何度も起訴されている。
訴えの内容はつねに、「違法医療行為」、彼が医師の免許もないままに植物で治療にあたったことであった。
原告が患者であったことは一度もなく、原告はいつでも「科学的であること」を良識とする医師会や薬剤師会、そして地方の厚生局であった。
21回の裁判で彼は負け続け、ついに一度も無罪を勝ち取ることはなかった。
法廷が開かれる前の1週間というものは、モーリスは神経がいらだち、閉じ込められた動物のようにそこらをうろうろした。
「私にとって法廷に喚問されるのは、檻に閉じ込められることでした。そしてその檻の柵は法律でした」。
植物療法師を弁護する人々
しかし裁判は回を重ねるほど、皮肉なことにモーリス・メセゲの名を世間に広めることとなった。そのたびに彼を弁護しようと証人席に立つ人々が増えていったからだ。
モーリスが最後の21回目の裁判に立ったとき、彼は48歳に達していた。
モーリスは彼を訴訟する側にたった老教授に対してこう言い切った。
「教授、あなたのおっしゃるその日進月歩の医学によってどうしても病気が治らず、
もうこれまでと思って自殺を考えたような人々を私は自分の民間療法で治すことができたのです」。
その言葉は誇張ではなかった。
裁判では、精神錯乱を克服することができた子どもの父、生まれつきの障害と言われた手が動くようになった少女など、モーリス・メセゲの植物療法の恩恵を受けた人々が次々と証人席に立った。
このときモーリス・メセゲを弁護する二万二十通もの患者たちからの証言が寄せられた。
判決があった翌日、各新聞は「真に治療するこの治療師は無罪!」と書いた。
それでも実際は有罪であり、モーリスは、わずかではあるが罰金を払わなければならなかった。
多くの人々を治療したにも関わらず、彼はついに正式に治療する権利を与えられないままだった。
だがそれでもモーリスは植物療法から身を引くことはなかった。というのも彼には信念があり、そして彼の治療を待つ多くの患者を決して見捨てることができなかったからである。
自然療法に対する「魔女裁判」
それにしてもなぜモーリスがそのように裁判所の原告の席に何度も立たねばならなかったのだろうか。
それは、自然療法に対する根深い偏見のためであった。
そうした偏見が、フランスの良識になってしまったことには、かつてヨーロッパ中で、キリスト教会による「魔女狩り」の嵐が吹き荒れたことにさかのぼるだろう。
「魔女裁判」の犠牲者となった人々の多くは名もない人々であり、とくに薬草に詳しく、植物療法にすぐれた女性たちが「魔女裁判」の法廷に立たされたことが記録に残っている。
それ以来、長い間、民間の人々がつちかってきた植物療法、すなわち「おばあさんの知恵」は、いかがわしいものとして、人々の意識から光のあたらない場所へと押しやられてしまったのである。
その暗く混沌とした中世の記憶は、のちのちの医療の形にも影を落とすことになったのである。
「魔女裁判」はすでに遠い過去のことに思われるがそうではなかった。
原告は教会から現代医療すなわち科学へと姿を変えながらそれは続き、モーリスは男性ではあるが、現代の魔女として法廷に呼び出されたのではなかっただろうか。
モーリス・メセゲは、現代の医学が、民間の経験というものをまったく信頼していないことに疑問を抱き、こう述べている。
「私は将来、経験に立って考える人がそれだけでの理由で排斥されず、その発見したことを公表し、その経験を知らせる権利がそうした人々に与えられる日がやってくることを、そして医学が善意の人びとすべてのものになることを、心から願っています」。
近代医療が否定した植物療法
近代医療がもっとも信頼したのは、民間の知恵ではなく、冷ややかな実験室であった。
だが植物療法が育まれたのは実験室ではない。傷つき、病に倒れた人を実際に治そうとした愛情をもとにした医療行為から生まれたものであり、植物との対話によって育まれたものであることをモーリスはよく知っていた。
植物療法が遠ざけられた結果、人々の記憶から、植物と人との深いつながりが忘れ去られてしまった。
しかしようやく今になって、一度は、地面の下に消えたかに見えた植物療法は、まさに希望の種のように芽を出し、ゆっくりと育ち始め、今再び人々の目に見えるまでになろうとしている。
あまりに副作用の多い現代の「科学的」な薬に代わるものとして、世界各地で植物療法が見直されてきている。たとえば漢方薬やアーユルヴェーダなども植物療法であり、それを現代医療と融合させようという動きも出てきている。
すでに1897年にプーシュ博士が、「おばあさんの知恵」、「魔法使いの知恵」に、植物による医療という意味のギリシャ語をもとに「植物医療(フィトテラピー)」という科学的な呼称をつけていることにモーリスは着目していた。
「私は植物療法というものの将来を信じています。これが明日の科学の一部になることを、私は固く信じて疑いません」。
植物療法は自然からの贈り物
モーリス・メセゲは、繰り返し、自然がいかに人に大きな贈り物をしているかを説き、環境汚染については自然の恩恵を台無しにしていると嘆いている。
「人々が、化学薬剤(洗剤など)が野菜や果樹の根から吸収されて植物体内の液に入り込み、植物全体を汚染しているという事実を気にしないのはなぜでしょう」。
21世紀の今、現代医療の多くの問題と反省から、ふたたび植物療法に光があてられている。
モーリスの言うように、植物療法がもうひとつの明日の科学になろうとする川の流れはもはや誰も止められない。
植物療法は、人が自然そのものであることをもう一度思い出させ、同時に今進んでいる環境破壊は、まさに自分自身を破壊していることを気づかせてくれることだろう。