綿の栽培というと、インドやアメリカ、アフリカというイメージがありますが、実は日本でも綿を栽培していた長い歴史がありました。
綿の栽培は、戦国時代から桃山時代にかけて始まり、米と並ぶ農作物だったのです。綿にはアメリカ、アフリカ原産の「新大陸綿」とアジア原産の「旧大陸綿」の2種類が存在します。日本で栽培されていたのは、「旧大陸綿」の流れを汲む品種で、「和綿」と呼ばれていました。一時は200種以上もの多様な「和綿」の品種があったようです。
明治時代になって自動織機が登場するとともに日本の綿作りが一変。大量生産が可能になったため、中国から価格の安い原綿を輸入するようになりました。大量生産の綿製品が普及するにつれて、その蔭で昭和30年代までには、日本産の綿は市場から消えてしまいました。
「益久染織研究所」をたちあげた廣田益久さんは、もともと繊維ビジネスの第一線で働いていた人です。やがて事業の不調がきっかけとなり「自分は豊かさをはき違えてきたのではないか」、「その中で多くのものを失ってきたのではないだろうか」と自問するようになりました。
そんなときに廣田さんが出会ったのが草木染め。しだいに「もっと自然や生命を活かす仕事がしたい」、そんな思いがつのって、手紡ぎや手織り、天然染料による染色などを教える「益久染織研究所」を始めました。
「ほんのちょっと100年前の暮らしに帰ろう。 少しずつ少しずつ戻せるものを戻すために」。「益久染織研究所」を運営しながら、廣田さんのうちには、いつもそんな未来への思いがありました。
中国の開放政策の一環として昭和56年、廣田さんは染織の専門家として指導の要請を受け、中国に渡りました。それが、農薬や肥料(化学・有機)を過去に一度も使ったことのない綿作りとの出合いになったのです。
普通のオーガニックコットンは3年以上無農薬・無化学肥料で栽培した農地(有機栽培と言います)を使い収穫する綿のことです。
しかし廣田さんが、中国の山東省の農村で見たのは、まさに100年前の明治時代にあった光景でした。はるか昔から一度も農薬や肥料を使ったことがない綿畑が広がっていました。一度も近代農業をしたことがないため、手作業の栽培手法しかなく、機械はなく、鍬や鎌など人の手で扱う道具だけでした。綿製品を作る際もまた、日本ではすでに滅びていた手紡ぎ、手織りがそこには今も生活に根付いていました。
そんなのどかな農村の風景に出合ったとき、廣田さんの心を占めたのは、いつもの思いでした。「ほんのちょっと100年前の暮らしに帰ろう。 少しずつ少しずつ戻せるものを戻すために」。心から手作り綿製品を製造、販売したいと思いました。
ところが、中国側が廣田さんに期待していたのは、繊維業の工業化に向けた農村の指導でした。それは大量生産、大量消費に見合った農村の近代化であり、廣田さんが一度否定した生き方でした。廣田さんは中国の要請を受け入れることができず、撤退すべきと考えましたが、昔ながらに綿作りをする農村が頭から離れませんでした。――このままではきっと日本と同じように、こんな綿作りが中国からも消えていくに違いない。
そこで廣田さんは、無農薬、無化学肥料の中国農村の綿作りを続けることを条件に引き受けることにしました。しかしなかなか考え方を理解してもらえない状況の中で、根気よく説得を続けながら、やがて中国・山東省の農村に合弁の工場をつくり、自然に逆らわない綿作りからの綿製品の製造をはじめたのです。結局、理解を得るまでに25年かかりました。
オーガニックという言葉は、「有機の」「農薬や化学肥料を使わない」のほかに“本来の”“自然に即した”という意味があります。 それは“昔ながらの”というように、特別なことではなく、はるか昔から行っていることを綿々と続けていることです。
「益久」は、中国の山村にまだ残っていた昔ながらの綿作りを残したいという思いを抱いて今も製品を作り続けています。
中国・山東省にある、琵琶湖ほどの広さがある契約農家の畑は、かつて一度も農薬・肥料を使ったことのない大地で、作業はすべて手作業。毎日、鍬で土を耕します。耕すことにより土に新鮮な空気が入り、水分の吸収が良くなるのです。無農薬の秘訣は虫が嫌うニンニクを裏作で栽培しているから。「それでも虫は、少しは出るけど、手で取れるくらいの量だから大丈夫。」昔から変わらない方法で綿作りをしてくれているファンさんは、笑ってそう話してくれます。
山東省では、糸紡ぎは農家のおばあさん達の仕事です。おばあさんたちは5~6歳の少女の頃から ずっと紡いでいるそうです。糸の太さの違いは指先の感覚だけが頼り。手紡ぎの糸があんなにやさしいのは、おばあさんの気持ちが指先から糸に伝わるからかもしれません。一日に紡げるのはわずか200g。綿番手の10番単糸から30番単糸までを紡ぐことのできる、すばらしい技術です。
しかし残念ながらそんな高齢の方々だけが持っていた技術もしだいに消えようとしています。「益久」では、ガラ紡という古い機械を使うことによって、手紡ぎの風合いが残る綿製品を残していこうとしています。
やさしく大切に紡がれた糸を染めます。浸染(糸染め)と手捺染(布染め)により「益久」の色へ生まれ変わります。柿渋染めのストールに使う染料は、柿の木から育てており、染料を自家生産しています。
通常栽培の綿と比べると、農薬を使わない栽培法で収穫された綿は、柔らかく、肌にとって心地良い風合いになります。また農薬や肥料が環境に及ぼす影響を考えると、気持ちにも良い流れをもたらしてくれるのではないでしょうか。
従来、木綿はシルクに比べて安く見られがちで、付加価値をつけるために後加工をほどこして薬品などを使うのがほとんど。しかし、こうしたことには繊維にとっては辛いことと「益久」は考えています。
「益久」は、綿の持つ本来の柔らかさを大事にしています。糸を紡ぐにしても紡績機械のように糸を硬くするのではなく、手紡ぎやゆっくり動くガラ紡績機で紡ぐので、ふっくらとした糸になります。
手作業を大事にする「益久」の製品は、いわば80%の完成品であり、残りの20%は使っていくうちにだんだんと肌や手になじむことによって完成品になると考えています。逆に機械でつくられたものは、100%の完成品として売られ、その後は使うほどに劣化していくことになるのではないでしょうか?